愛の反対は無関心

私たちが想っている「幸せ」の正体とは、いったい…

幸せの定義は人によって大きく違う。何より漠然としていてイメージも固まってないから、多くの人は説明できないだろう。これほど難しい問いはないのではないだろうか。にも拘わらず、「あなたを必ず幸せにします」とか「うちの娘をぜったいに幸せにしてください」などと社交辞令として公言しすぎる。

私たちは国や家族と、大小さまざまな組織に属して何気に暮らしているが、国や社会が決めた法律を忠実に遵守しながら、他人に一切迷惑をかけずに生きていたとして、果たして幸せになれるのだろうか・・・いやいや、それだけでは到底なれそうもないと誰しもが思っているに違いない。

ただ、昔から親が子に求めている「何か」であるような気もしている。親というものは本能的に子どものことで心配したくないし、自分の枠を超えた問題が発生しないように願っているものだ。子どもに向かって「あなたのために言っているのよ」というのはたぶんウソだ。

幸せの大枠は、世間体を気にしなければならない変な問題が起きないこと、人様にはずかしくないレベルの生活やある程度の自由にできるお金を蓄えていること、のような気がしてならない。

世間体を守りながら生きていても、私たちは自然界のルールや法則といったものの中で生きている。自然界を管理をしているであろう目に見えない何者か、いや神様がいらっしゃるとは思う。その部分をどのように感じるのかはその人の霊的知能のレベルによる。

人間は、苦難や災難という現象を嫌うが、「有難い」という言葉を見てもわかるように、困難や苦難が有ることを、本質的にはありがたいということだ、と唱える人いる。ということは、人として成長することが何かしらのヒントになるのだろう。あとはどのように成長すれば、死んだ後に100点をもらえるのかは神様しか知らない。

人間が作った法律は、人間が人間の間で不都合を起こさないようにするために作ったものだ。その法律に照らし合わせて、一昔前には、宮崎で起きた口蹄疫などで、生きる資格があるはずの牛が犠牲になっていた。鳥インフルエンザの鶏たちもそうだった。

法律は、時として人間を守るために他の生命体・種族などを犠牲にするルールでもある。ただ、そのとき私が決断をしなければいけない側だったら、 私自身どういう決断をしていたのかは、その時にならないとわからない。

他人に対する「無関心」

他人に対する「無関心」もそう。

別に無関心だからといって誰にも迷惑もかけていない。
ところが、宇宙の法則・仕組みから見ると、立派な罪なのだそうだ。
あの、銀座まるかん社長の斉藤一人氏もそうおっしゃっている。
マザーテレサ氏の名言もある。

「愛の反対は、憎しみではなく無関心なのだ」と。

親が子に対して、「無関心」の度合いが高くなると、子供は、自分を認めてもらうための行動をする。例えば、無意識に良い子か悪い子になってメッセージを送るようになる。

自己重要感を渇望しているのが人間の本能であって、愛の反対は、無関心なのだ。
だから、無関心の反対は、「真正面から向き合う」となる。
スポンサーシップという概念が必要になってくる。
不器用でもいいから、その人なりに真正面から向き合う、それが大事なのだろう。

ときに、人間は地球の支配者として振舞うのではなく、他の生命・存在物に対しても常に関心を持ち、スポンサーシップを発揮して調和のとれた文化を創造していくことも役割・使命の一つになるはずだ。